亀田五三二氏の父島軍隊日誌・抜粋
<昭和16年9月より18年4月末まで>

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<資料>
原文日誌は八潮市・亀田勲氏よりお借りしました。
亀田五三二氏は工兵隊に所属。


<昭和16年>
昭和16年9月
18日:午前8時、赤羽近く東部十四部隊へ入隊。同日、入柳部隊第三小隊三分隊へ編入。
20日:動員完結。午後5時、屯営出発。自動車にて、芝浦より乗船。(同時に歩兵乗船)
21日:横浜にて、砲兵乗船。午後6時、横浜出発。(みどり丸)
24日:午後8時、小笠原群島父島二見港に着。
26日:午前7時、下船。船中の混雑、言語に絶す。初めての常夏の風物に接す。珍しい物ばかり。司令官(川上大佐)の訓示あり。行軍にて、約2時ばかり山に入り、臨時宿舎につく。時に26午後3時、すぐに武装を解く。(袋沢囚人小屋)   
28日:午後、小港まで、使役に行く。
29日:入隊以来、初めて作業に出た。午前4時起床。大村まで船で行く。道路構築で大分骨が折れた。不寝番4番に立つ。

昭和16年10月
1日:宿舎は三日月山のすぐ下で、参考館(産物陳列館)であった。
3日:今日から隣浜の海際で、大工仕事をするべく木工8名が出て準備。砲兵兵舎をやることとなったのだ。
4日:夕食後、部隊長殿の御注意あり。
5日:夕食前に地方の家(中村氏方)に入浴。気分すこぶる良し。
10日:晴天。一昨日、二見港に入った連絡船・芝園丸も、昨晩10時に発ったとのこと。分隊の金沢君も、病のために内地に帰る。
16日:今日から山へ仕事に行くはずであったが、舎内当番で宿舎に残る。松沢君が日直。
17日:久しぶりに三日月山の砲兵兵舎の仕事。
18日:今日は靖国神社の大祭で一日休養。
22日:午前中、砲兵の実際射撃で、山へ行かれず、海のところから材料運搬をした。夕食後、初めて俸給をいただく。
23日:今日、飯塚氏と家から手紙が来た。
24日:夕食の時、久しぶりにうまいビールを飲んだ。
26日:娯楽会があった。
29日:本日は食当番。
31日:夕食後、お祭りを見に行く。

昭和16年11月
2日:次の作業地・扇浦の作業地区視察のために、石川班長以下5名、朝6時出発。
3日:今日は明治の佳節。お天気はどうやら直ったらしく、良いお天気。午前9時、遥拝式があり、それからは休み。一小隊の兵隊と、斎藤君と4人で釣りに行く。
4日:大村のお祭りを見に行く。
5日:大村をあとに、今日は扇浦に移転をした。午前8時半、部隊長殿に申告。船にて扇浦に、学校の付近に宿営した。(天幕)
6日:今日より、扇浦にて道路作業を始めた。
11日:午後は斎藤君と釣りに行ったが、駄目だった。
12日:命令によると、本日より本戦備に入ったとのことだ。山へ道路作業に行った。今日は歩兵が50名ほど来た。
15日:お昼のとき、皆でエビ捕りをやった。
17日:新兵舎になれぬ一夜を明かした。夕方までに、本部の移動の使役に出た。
18日:今日は本部へ木工としての使役に行く。本部の机作り。ニ分隊の鈴木君と2人でやった。
20日:今日は渡部君が手伝いに来た。今日珍しくとも、金庭君より、金5円也送ってきてくれた。
23日:今日は作業は中止して、内務検査に立ち会った。午前9時、小隊長の下検査あり。10時より、隊長の検査があった。午後は休養。斎藤君と小港へ釣りに行った。
25日:今日はまた山へ道路作業に出た。扇浦に通ずる道路は、午前中をもって終わる。午後、夜明山に通ずる道路にかかった。半分くらいは歩兵がやってくれたので、大変に助かった。今日は歩兵は移動で休みだった。
27日:芝園丸が入港した。

28日:初めて診断を受けて、連兵休となり、かゆ食となった。

昭和16年12月
2日:久しぶりに今日は休養で、午前8時半より内務検査に、銃剣の検査があった。外出はなく、内務休養だった。
4日:涼しい秋風が身にしむ頃となった。内地帰還のデマがしきりに飛ぶ。晩、柄津より金を返してもらった。
7日:午前、武器被服の手入れ。7時の会報の時、日米戦が始まったとのニュースあり。実砲を渡された。とうとう来るべきものが来たのだ。
8日:扇浦より連珠谷に砂運搬。今朝早く、芝園丸が入港した。今朝11時、英・米両国に対し、宣戦布告をした。
9日:朝まだ明けきらぬ頃(午前5時半)、敵機襲来のサイレンあり。武装して出たが、すぐに解除になった。ニュースによると、日米戦も、わが軍多大の戦果を上げたとの事。
10日:午前7時、日米戦戦勝祈願祭が行われた。そのあと、対空射撃演習があった。日米戦、その後の戦果は、益々上がる。。
11日:入隊以来、初めての衛兵につく。
13日:夕食後、冬襦袢が1組渡った。日米戦を、大東亜戦争と言うこととなった。
14日:大東亜戦争の捷報しきりなり。皇軍の武威、世界に輝く威なるかな、わが皇軍。
15日:昨晩より、憧れの電燈がつく。本日、衛兵・石川伍長なり。
16日:午後は必戦勝祈願旗行列が、島民によって行われた。
17日:本日、わが分隊は待機分隊で、内務班に残る。今朝より、日朝点呼が30分早く、5時30分となった。
18日:入隊以来早くも満3ヶ月になる。過ぎたことを思えば、ずいぶん早いような気がする。今日は基本射撃に、洲崎飛行場に行く。
20日:今日は作業には出ずに、本部の糧秣運搬に出たが、船の具合が悪く、とうとう一日中待ちぼうけに終わる。そのあと、営庭で、軍歌演習をやった。
21日:今日は衛兵勤務に服す。司令は石川伍長だった。日曜であったが、午前中執銃教練に小港へ行った。今日は久しぶりに便りがあった。杉崎君、大塚君、章典より来た。
24日:今日は本部の使役に出た。早目に廠舎を出て、大村の司令部に郵便物を取りに行く。ずいぶんたくさんあった。有難いことに、分会国防で、慰問品を送ってくれた。手紙も来た。子供の写真が来た。夕食後、手紙を書く。
25日:今日は大正天皇祭であったが、隊では休みにならなかった。
26日:今日は第二次基本射撃。洲崎飛行場にて行う。本日。我が分隊は待機であったので、早く帰る。午後2時より、銃剣の検査があった。
28日:今日はまた連珠谷へ作業に行く。今日は石川班長は作業に出なかった。
29日:今日は午前10時より、内務検査があった。午後は使役。薪取りに行く。午後3時半より隊長の訓示があった。
31日:歴史に長く残るであろう、昭和16年も、いよいよ今日で終る。兵隊のこととて用もないので、午後2時まで魚釣りに行く。あまり大したことはなかった。夕食の時に、お酒があったので、各小隊とも、みな元気に騒いだ。
過ぎしあとを顧みるに、支那事変も世界戦史にまれに見る戦果を収めして、着々最後の段階に入りつつあるとき、9月下旬、我に召集下令あり。勇躍牡途につき、ここ小笠原の任地につく。12月8日、英米戦に戦端開かる。我らが戦友は、いたるところに絶対なる武勇をあらわし、敵をして、顔色なからしめ、我に有利に戦果を上げて、この16年も終わるのである。我らが戦友よ。安らかに、この意義ある昭和16年を送ってくれ。

<昭和17年>

昭和17年1月
1日:昭和17年も無事に明ける。十数年ぶりかの、軍隊でのお正月。午前7時、宮城遥拝を全員で行う。
4日:本日、第二分隊は、巽崎へ出張した。
6日:本日は今年の仕事初め。今日、時計を送るべく、金子氏に依頼した。(代金15銭)
7日:明日行われる、陸軍初の観兵式の予行が、今日、洲崎崎飛行場において行われた。
8日:陸軍初の観兵式に参列のために、午前8時、集合。被服検査して、9時、洲崎の飛行場に行く。お天気は悪く、幾分荒れ気味の風が吹き、今にも降りだしそうなお天気であったが、よいあんばいに、式が終わるまで降らなかった。この島始まって以来の、観兵式のこととて、見物人がずいぶんたくさん出た。
9日:今日は連珠谷に仕事。第一分隊のコンクリート打ちの手伝いをした。
10日:第4回目の衛兵勤務。司令、第一小隊の池田伍長。
11日:午後は、初めてキャッチボールをやった。
13日:本日は我が分隊は、待機分隊であって、関口友吉君、1人残る。あとは使役と作業。俺は使役で、衛兵所前に、哨舎を建てるお手伝い。
15日:早いもので、1月も中旬になる。小正月とか、町は大分賑やかであった。今日は大村の第一砲台に、セメントを取りに、早出で出かけた。歩兵も40名ほど来てくれた。第一砲台のものすごいのには驚いた。国防の完備を見て、非常に心強く感じた。今日午後、来信あり。先月24日、田所氏死亡したとの事。夕食後、悔状を書く。
16日:夕食後、第一分隊のラジオ組立った。約4ヶ月ぶりに、7時のニュースを聞く。血わき肉踊るの感があった。雨もまた強く降り始めた。
19日:俺は今日は、糧秣運搬の使役に大村に行く。
21日:今日は初大師だ。西新井大師様の賑わいが目に浮かぶ。夕食後、5時半に非常呼集あり。第一、第四小隊は大村に行軍。第三小隊は警備のため小隊に残る。細くかかった三日月は、寒い夜空にかかっていた。9時0分頃、各小隊は無事に帰る。ここに非常呼集の演習も、滞りなく終わり。小夜食を済ませて、9時頃に寝た。
22日:第5回目の衛兵勤務につく。司令は第一小隊の望月軍曹なり。本日、芝園丸が入港した。小熊君より葉書来る。手紙が少ないのでちとがっかりした。
23日:本日の衛兵司令は、石川伍長なり。
24日:明日の日曜に変えて、今日は休養(将校会議)であったが、我が分隊は待機分隊で外出なし。
25日:午前6時に集合。大村に糧秣の使役に行く。今日は中隊は巽崎に行軍に行く。今日、結核の注射をした。
26日:扇浦の海岸より、連珠谷に砂利運搬。工兵2個分隊に、歩兵も出て、大分運搬した。思いがけなく、今日は手紙が来た。松井田と高橋浜一君より来た。子供の写真も来た。大分大きくなったようだ。
27日:初めて炊事の魚取りの使役に行く。8時集合。リヤカーを引き、扇浦の波止場に行く。
28日:今日は珍しく境浦の陸軍病院に使役に行く。松沢、斎藤両君とともに行く。
29日:第三次行軍。第一次、第二次ともに勤務で行かれなかったが、今日は何にもあたっていなかったので、元気に行軍に参加した。第三小隊は初寝浦。我が分隊は4名。午前8時集合、同時出発。10時、初寝に到着。飯盒炊さんでお昼をやって、午後は2時出発。帰路につく。初寝に休憩中に、水中爆破によって、かなり大量な魚を取った。
30日:第6回目の衛兵勤務。
31日:午後は陸軍病院へ、ハカリを貸しに行く。

昭和17年2月
1日:今日は外出できる分隊なので、例によって、遠藤武さんと山歩き。午後、扇浦に出て、金子さんでお湯をいただき、よい気分で帰ってきた。
7日:一日中、波止場より連珠谷へ砂運搬。明日、芝園丸が入港するとのこと。
8日:第7回目の衛兵勤務。歩哨係なり。司令・熊川伍長。今日、久しぶりに手紙がたくさん来た。ほんとに嬉しい。(深井さんより、小包送りしとのこと。早く来れば良いが。)
9日:今日もまた昨日の残りの手紙を受け取る。純ちゃんより新聞がたくさん来た。ありがたい。
10日:今日は郵便取りの使役。午前7時集合。軍船にて大村司令部に行く。夕食後、7時、警戒管制のラッパがあった。大変に驚いた。
11日:紀元2602年の紀元節。朝より大変に良いお天気だった。午前8時、集合。宮城遥拝式あり。9時、外出。柄津と2人で大村に行く。隣浜の廣野氏で遊び帰る。
12日:砂利と砂が間に合わないのか、今日は連珠谷の作業をやめて、夜明山の山本部隊の作業見学に行く。本夕、軍用船らしき船が入港した。
15日:午前8時より、内務検査があった。そのあと、営庭で、隊長殿の訓示があった。内地と同じ取り扱いを受けるここは、何かにつけてほんとに難しくて困る。今日は待機分隊で、外出はなし。午前中、キャッチボールをやった。
16日:昨晩7時55分、シンガポール無条件降伏を、今朝発表せらる。威なるかな、皇国の軍隊。20日過ぎなければ、軍船は入らないとのこと。ほんとに待ち遠しいことだ。
17日:陣営貝を取りに行ったのだ。
18日:朝のうちは曇天、小雨。作業に出かけたが、雨のため、午前中だけで帰る。正12時、シンガポール祝賀の式があった。街では旗行列があった。
20日:夕方、待望の軍船が入ったとのこと。
22日(日):今朝、外出前に、ガス演習があった。
23日(月):一日中、誠にむし暑いお天気であった。今日もまた一日中、扇浦の波止場より、連珠谷砂利運搬。夕食後、入隊以来初めての慰問袋をいただく。横浜の小学校よりだ。
24日(火):朝のうちは、あまり香ばしいお天気ではなく、霧雨が時々降っていた。小隊長殿は、巽崎へ。一日中砂利運搬。午後はお天気も良くなり、かなり蒸し暑いお天気になった。夕食後、慰問袋の礼状を書いた。
27日(金):今日は長以下6名で、夜明山に作井に行く。大分張り切って約6尺やった。
28日(土):今日は初のガス演習を、中隊全員でやった。午前中は扇浦の海岸でやり、午後は小港の海岸でやった。お天気よく、大分暑かった。今日、久しぶりに四分隊が帰ってきた。

昭和17年3月
1日(日):朝7時より隊長殿の訓示があった。お昼過ぎ入浴。一日中何もせず、よく休んだ。待ちに待った芝園丸が、明日入る予定だったのが、途中で敵潜水艦に襲われたとかで、また東京へ引き返したとのこと。大東亜戦争も、ようやくその戦果を上げつつある。ジャワ沖海戦は、またものすごいものだった。(3月1日午後4時発表)
5日(木):昨晩12時近くに、近所の人家に火災あり。午前2時頃まで、消火作業をした。風邪があり、一時はものすごいものであった。今朝は起床は1時間延びた。夕食前に、乾燥芋が沢山渡る。
7日(土):久しぶりに大村に使役に行く。炊事の魚取りだった。午後は司令官の巡視があり、そのあと先達の火事について、お褒めの言葉があった。
8日(日):昨晩より降り出した雨は、とうとう、今日一日中やまずに降っていた。午後、皆で小港まで遊びに行く。今日、午前中に待望の芝園丸が入港した。明日は衛兵だとのこと。
10日(火):第37回目の陸軍記念日での今日は、夜来の雨も名残なく晴れて、朝より大変良いお天気であった。
11日(水):そのほか、深井さんから慰問袋が来た。
14日(土):今日は森部隊の慰問団が来るというので、作業もやめにして、朝から何かと準備に忙しかった。
17日(火):今朝7時25分、父島二見湾口5千米海上にて、我が軍・運送船が敵のため、沈没した。今日、小隊長殿が来られた。応召以来満180日、ほんとに早いものだ。(石狩丸)
21日(土):今日は春季皇霊祭で休み。今日、突然郵便が来たが、俺には純から新聞が来ただけで、手紙はなし。
22日(日):午前中、扇浦の川島さんで遊び、午後は海で貝取り。
23日(月):午後2時頃、内務検査を兼ねて、被服の検査があった。、
25日(水):今日はまた、敵潜水艦が付近の海に来たとのことだ。夕食後、警戒管制に入る。
28日(土):午前中に司令官が夜明山に来られた。午後は小隊長殿が作業場に来られた。

昭和17年4月
1日(水):東部隊へ行って作井作業。今日から起床時間が30分早くなり、午前5時。日夕点呼が1時間遅くなり、8時半。1日で1時間半延びたわけだ。
2日(木):今日、芝園丸が入港した。
3日(金):今日は神武天皇祭で休み。珍しくビールの下給品があった。午前は舎内にいて、午後は海に貝取りに行く。
4日(土):朝より曇り、珍しく執銃教練を、洲崎飛行場でやった。
7日(火):割合に涼しい一日を送る。夜明山防空隊の作井作業も、岩盤で中々思ったより先へ進まない。午後、小隊長殿が来られた。
12日(日):今日は外出。久しぶりに外でお酒を飲んだ。
15日(水):今日は一日がかりで、パイプを作り、小隊長と加藤安君にやる。久しぶりに手紙が来た。植村フミ・高橋浜一・佐々木厚 三氏より。
18日(土):中隊はガス演習。午後は、例によって内務検査があった。だいぶやかましかった。2時頃より、また雨が降り出した。◎本日、午後0時30分頃、東京の京浜間が敵機の爆撃を受けたとの報道があった。敵機9機を落としたとのこと。損害の程度はいまだ不明なれども、大変なことであったことと思う。外国機の攻撃を受けたのは、わが国にては、開国以来初めてだ。われわれの驚きはさることながら、銃役の人たちはどんなであったことだろう。
19日(日):朝7時より、第一小隊において、中隊長殿の精神訓話があり、そのあと月例身体検査。午後は上等兵の学課試験あり。
22日(水):午前中、小隊長殿の学課があった。
23日(木):一日中好天気。吉田君と2人で、内務班の大掃除をやった。そのあと、洗濯をした。夜、扇浦国民学校に、海軍のニュースの活動があり、中隊全員行く。俺は1人で残り。
25日(土):今日、靖国神社の臨時大祭で休み。今日のお昼の警戒警報が解除になり、午後は外出があったが、我が分隊はなし。
27日(月):今日は天長節観兵の予行を、洲崎飛行場で行われた。お天気よく、ずいぶん暑かった。午前中で終わりになり、午後は休養。本日、芝園丸が入港したが、便りは来たらず。
29日(水):天長の佳節。お昼のとき、久しぶりにお酒を飲んだ。
30日(木):ようやく4月も終わる。ほんとに早いものだ。今日は靖国神社の大祭で休み。

昭和17年5月
3日(日):心配した今日の日曜日も、やっと休みになったので、石川さん等と一緒に、船で小港に魚釣りに行く。
4日(月):今日また警戒警報が発令せられた。最早、内地の真夏だ。暑さのため、ずいぶん疲れる。
5日(火):依然として、警戒警報中であった。今日、初めて兵隊の進級があった。幸いにも、兵長に進級できた。
6日(水):今朝、起床4時。進級者の申告式があった。今日は芝園丸出港。俺の便りもまた届く。
8日(金):今日は誓旨俸休日で、日朝点呼の時に、誓旨の奉読があった。7時半になり、扇浦の学校へ海軍の活動を見に行く。久しぶりに見ることとて、だいぶ面白かった。ずいぶん疲れた。
9日(土):夕食後、週番(甲)を申し受けた。入隊以来、初めての週番勤務だ。夕食後、営庭で浪花節があった。(兵隊)
11日(月):今日、第2回目の慰問袋をいただく。(下谷区)
12日(火):朝より霧雨が一日中降っていた。降る雨をついて、全員作業に出た。午前中、陸軍病院に、退院者を迎えに行く(二小隊・中西重次)。
13日(水):夕方、母島の斎藤少尉殿が来られた。
14日(木):午前中は小港へ魚釣りに行く。要塞神社のお祭りで、大村小学校校庭で、兵隊の余興があって、大変に賑やかであった。
19日(火):今日もまた検閲準備で砂利運搬に出る。ずいぶん疲れたが、午後2時より、明日の健脚競争の出場人員は休みになった。
20日(水):晴れの健脚部隊競争に出場のために、午前7時出発。9時10分、大村に向かって出発したが、ずいぶんものすごい駆け足なので、ほんとに驚いた。やっとの思いでゴールイン。所要時間55分。尾久の武井さんが、先月21日に亡くなったとのこと。お気の毒なり。又雄も南方に進出したとの通知があった。
23日(土):軍隊最大の行事たる、検閲が今日、自分の隊で行われた。午前7時半、集合。8時半に始まった。司令官殿を始めと、大勢の将校が来た。無事に終わったのが、12時。
26日(火):午後、小隊長殿が来られた。

昭和17年6月
2日(火):夕方、下駄を作る。
3日(水):本朝、この島より第1回帰還者が若干帰った。
4日(木):衛兵も無事に明けて帰る、今日は慰労休暇で休み。
6日(土):休日が変更になり、今週より毎土曜日が休養日となった。第1日の今日、久しぶりに大村に行く。司令部の酒保ができたので、甘いものを腹いっぱいにして帰る。
9日(火):作業は相変わらず夜明山防空隊に作井作業。午後には珍しく隊長殿が来られた。
10日(水):いよいよ待望の夜明山出張。午前7時、出発。午前中に全部運搬終わり。午後は宿舎の準備をした。初めての夜明山。夜に入って霧が多いのに、ほんとに驚いた。
13日(土):中隊へ行き、小包を出して、午後大村に行く。営外の酒保で、餅菓子を食べて、早く帰る。そのあと、松沢君と剣術をした。
14日(日):午前中に小隊長が来た。松沢君が本部付けになったので、今日山を下った。
15日(月):今日、珍しく本部より高橋、小早川両軍曹が作業見学に来た。午後、班長は大村に行った。
17日(水):思いがけなく石井澤次君より手紙が来た。
19日(金):今日午後、芝園丸が入港したとのことだ。
20日(土):昨夜21時30分、久しぶりに警戒管制に入る。午後、蓄音機をかけて遊ぶ。
21日(日):今朝7時半、警戒警報も解除になった。良三君が代筆で、きみ子の病気を知らせてきた。大したこともないと思うが、困ったことだ。
25日(木):今日は月例身体検査で、作業は休み。午前7時、全員小曲兵舎に行く。午後は、扇浦海岸へ遊泳演習に行く。
27日(土):久しぶりに斎藤君と釣りに行く。乳頭山の下で、かなり面白い釣りができたが、往復がとても大変なので、ずいぶん疲れた。
28日(日):夕方、二見港に軍艦が入った。涼みながら山の上に見に行く。
29日(月):今日は本部の高橋軍曹が見学に来た。
30日(火):午前9時、夜明山より自動車にて大村へ。

昭和17年7月
4日(土):昨夜、またまた警戒警報が発令され、今日の休養日はまた外出できずにしまった。午前9時、予防接種をやった。。
6日(月):午前中に警戒警報解除された。
8日(水):午後は乳頭山の下まで釣りに行く。相変わらず斎藤君と2人。
13日(月):作業は今日から、いよいよ下の井戸、即ち第二次作井作業だ。一日中準備作業をした。俺は下水の石積み。午後は例によって休み。
14日(火):午後2時、東隊長と兵隊2人、それに俺に斎藤君と5人で、乳頭山の下に釣りに行く。乳頭山の兵隊で、夕食を御馳走になって帰る。
15日(水):午後、小隊長殿が来られた。夕方、谷川へ体を洗いに行く。
16日(木):お盆の16日で、幾分早仕舞。今日、隊長が来た。幾月ぶりか、珍しいことだ。午後は昼寝をしないで、宮内君の****を作る。夕方、銃剣術をやった。来る19日の日曜日の銃剣術に、選手として出場の予定だ。それの稽古だ。今晩、夜明山の防空隊では、夜間演習をしていた。
18日(土):朝の涼しいうち、ちょっと銃剣術の練習。
19日(日):今日は父島の兵隊の銃剣術の競技大会。選ばれて出る。午前9時、試合開始。暑さの真っ盛りを、午後の1時までよくやったと思われるほどの暑さだった。自分は幸いにも、7人抜いて中隊での最高点らしかった。
20日(月):今日は、第3回目の注射を午前9時からやった。
24日(金):今月の月例身体検査のために、今日は作業をやめて、全員中隊へ帰る。第四砲台に、材料引取りの現場を見に行き、帰りは自動車で帰る。
25日(土):今日は朝のうち、1時間半ばかり仕事をして、9時より第4回目の注射をした。これで注射も終わってほっとした。午後4時、山へ魚釣りの竹を取りに行く。
28日(火):今日は、大村第四砲台に、材料取りのために斎藤、横山両君と3人で行く。ほかに使役兵7名が来た。
29日(水):午前中に小隊長殿が来られた。中隊より測量の兵隊が5名。
30日(木):待望の芝園丸が入港した。船が入ると、いろんなデマがしきりに飛ぶ。
31日(金):今日は東部隊より使役2人取る。

昭和17年8月
1日(土):今日は中隊は休みなので、珍しく柄津が遊びに来た。
2日(日):例によってまた乳頭山の下へ魚釣りに行く。今日は香川隊の兵隊も加わって、大分大勢であったが、魚釣りのほうは駄目だった。
3日(月):川上司令官が栄転されるので、そのご挨拶に、今日夜明山に来られた。
5日(水):川上大佐もここの司令官を交代して、今日も夕方の芝園丸に乗り込んだとのこと。第二分隊長・益田伍長も召集解除になったので、今夕芝園丸に乗り込んだ。芝園丸も、今夕か明日は出帆するらしい。
8日(土):今日は第8回目の大詔奉戴日のこととて、香川中隊のおいて遥拝式を行う。
9日(日):好天気の日曜を迎えて、元気に横山君と2人で、大村の隣浜へ魚釣りに行く。ソロモン海戦でものすごい戦果を上げたとのこと。前線の兵隊さんはほんとに御苦労様。我々も負けぬよう、ますます頑張っていかなければならない。
11日(火):午前中、増子准尉殿が来られた。
12日(水):今朝8時過ぎに、またまた警戒警報に入る。
13日(木):海軍の連絡船が入港して、懐かしい便りを持ってきてくれた。家から久しぶりに手紙が来て、ひと安心した。朝のうち、1時間ばかり仕事をして、それから郵便物受領のために大村に行く。
14日(金):今朝、警戒警報が解除になったとのこと。
17日(月):連絡船・芝園丸が今朝入港した。
18日(火):午後は、第三トンネルの海へ釣りに行ったがだめで、早目に帰る。家と純より手紙が来た。純もいよいよ転業したとのことだ。
19日(水):夕食後、大村に慰問団の演芸を見に行く。
20日(木):午後、水汲みの自動車にて、大村にハツリ鑿をなおしに行ったので、昼寝ができなかった。夕食後、香川隊の山の下の入浴場に行く。
22日(土):今日、お昼の時に、珍しく司令部勤務の佐久間君が来た。
24日(月):一日中、木工仕事。夜は暴風警報が出たとのことだ。
27日(木):今日は今月の月例検査のために、作業をやめて、全員中隊に帰る。月例検査のあと、洲崎飛行場に行き、体力検査をやる。
31日(月):午後の休みも今日限り。

昭和17年9月
1日(火):思い出は遠く、20年前の今日、関東大震火災。痛ましい。思い出はそれからそれへと。今日もまた作井場の洗濯場作り。今日より午後の休みはなくなって、一日作業となる。
3日(木):今朝、海軍の艦が入港したとのことだ。懐かしい郵便は?
4日(金):桧井田君より便り来る。弟・又雄はスマトラにいるとのことだ。
5日(土):今日から食事当番。午前中、芝園丸が入港したとのことだ。
8日(火):今日は大詔奉戴日。午前7時、香川隊の陣地に集合。遥拝式を行う。式後、香川隊長の時局話があり、大いに参考になった。
10日(木):夕食後、入浴、そのあと、香川隊の夜間演習を見に行く。
12日(土):夕方、停電がしばらく、電気がつかず真暗だった。
13日(日):日曜でもゆっくりと休むことができず、今日は中隊へ血液検査に行く。朝のうち司令官と中隊へ補充兵が10名来た。
14日(月):今日から、第四分隊が全員援助に来た。
15日(火):久しぶりに、今日は中隊へ連絡に行く。午前7時出発。徒歩にて行く。帰りは大村に回って、買い物をして自動車で帰る。今日は大分暑さが厳しかった。森部隊もいよいよ今晩、船に乗り込んだらしい。
17日(木):今日午前、この隊では、第2回目の帰還者が隊を出て行った。今日、宿舎の移動。
20日(日):動員完結満1周年記念日。完結記念で、隊からいろいろな加給品があった。
24日(木):名月十五夜も、今晩とのこと。今日は秋季皇霊祭で休み。昨年の今日は、任地・小笠原に船が着いた日。小笠原・父島に来て満1ヵ年だ。
25日(金):今日は新部隊長・武蔵野中尉殿の命下布達式を、中隊で行われたので、全員儀式の軍装で出かけて行った。
27日(日):何の船か知らないが、今朝二見港にかなりの船が2つ入った。
28日(月):新司令官・木村少将閣下が始めて夜明山の防空隊へ来られた。そして午前中、高射砲の実砲射撃を閲して帰られた。午前中に、芝園丸が入港した。晩は防空隊の夜間演習を見学した。
29日(火):雲多い日。高射砲が一日中発砲していた。大分遅れた俸給を今日いただく。昨日の芝園丸で、手紙が3枚(小熊・戸塚・小川純)来た。
30日(水):今日、午前中また警戒警報が発令された。

昭和17年10月
1日(木):夕方、申告を済ませた。小隊に補充兵がいて、ずいぶん賑やかだ。約110日ぶりで中隊に寝た。
5日(月):久しぶりに大村に行く。司令部の鍛工場に器具を直しに、斎藤君と2人で昼食を持って行った。
6日(火):他の隊では、またまた召集解除者があるとのこと。だが、工兵隊はどうしたのか。いまだに1回もない。
8日(木):第10回目の大詔奉戴日。日朝点呼、同時奉読式を行う。
10日(土):あすは初の衛兵司令に服すので、今晩は服務計画を作るのに、寝るのが大分遅れた。
14日(水):午後は二分隊の鈴木君と2人で、炊事の桝作りをやった。
16日(金):靖国神社臨時大祭にあたり、遥拝式で、渡辺少尉の指揮にて、午前10時15分全員営庭にて行う。
17日(土):曇りがちなお天気であった。新嘗祭で、午前10時より営庭で式があって、今日はまた休み。
20日(火):午後2時より小隊長の検査があって、今日の行事はは終わる。
22日(木):新木村要塞司令官の初度巡視の当日。午前8時半、儀式の場合の軍装にて、営内に集合。9時半、若干遅れて司令官閣下、来隊、訓示あり。午前10時、無事に終わる。あと休養なり。
23日(金):靖国神社例大祭で休み。
25日(日): 7時より月例身体検査があった。体重も幾らか増した。例によって魚釣りに行く。陸軍病院のところに行ったが、とうとう今日はあぶれになった。
26日(月):午前中、隊長殿の学課あった。
27日(火):今日からいよいよ中隊作業で、三日月山へ道路構築。今朝、芝園丸で、前隊長が帰られた。疲れて帰ったのが5時。
30日(金):今晩は大村の学校に演芸があったが、風邪気味であったので見ないで帰る。帰りに酒保品の運搬があっので、中隊へ帰ってきたのが、大分遅くなった。今晩の会報で、来週は週番下士とのことだ。初めてだ。

昭和17年11月
1日(日):今朝、起床1時間延びた。点呼後、隊長殿のお話があった。
3日(火):今日は明治の佳節で休み。午前10時、営庭にて遥拝式を行う。
5日(木):今朝7時、隊長殿は母島に出張のために出かけた。
7日(土):今朝、芝園丸が入港したが、手紙はなし。
10日(火):珍しく東ちゃんより雑誌が来た。厚君より、大塚君戦死の通知を受けた。
12日(木):昨日、隊長が母島より帰る。
14日(土):今日から作業の往復にも上衣を着用することになった。まだまだ日中はかなりに暑い。
19日(木):今日は珍しく隊長殿が引率をしていく。道路も今日で終わり。帰ってきたら手紙が来ていた。塩沢、萬一郎兄と、珍しく瑞江君より初便りが来た。
20日(金):今日から営内において兵舎構築作業を始めた。今日は横山君と2人だった。
21日(土):道路作業も終わりになったので、今日はかねてのとおり、慰労休暇を実施で、今日は休養。午後は久しぶりにパイプ作りで、日を暮らす。日夕点呼後、軍医に差し上げた。
22日(日):そして大村の国民学校に運動会を見に行ったが、惜しくも途中より雨に降られて駄目になったので帰ってくるが、とうとうびしょ濡れになってしまった。
23日(月):今日は祭日で休養。外出はあったがのだが、昨夜警戒警報が発令せられて、外出取りやめ。
24日(火):今日は月例身体検査で、作業はなし。体重も幾分増えたようだ。午後、連珠谷の兵舎まで、材料を見に行った。中隊では、扇浦まで全員、軍歌演習に行った。今朝、芝園丸が入港した。
25日(水):午後、家からの便りが来た。東吾より送金がなくなったとのことだ。
26日(木):夕方、連珠谷に合掌を取りに行ってきた。道が悪いので、大変であった。今晩は酒保品が驚くほどたくさん渡された。
29日(日):今朝、小隊全員巽崎へ出張す。

昭和17年12月
1日(火):昭和17年もいよいよ今月で終わりになる。思えば早いものだ。今日から第一小隊より小林精次君が援助に来た。
2日(水):作業を仕舞ってから、扇浦の学校に、村の活動を見に行く。久しぶりに活動を見たので面白かった。
5日(土):今日は納めの水天宮だ。東京にいれば出かけるところだ。
7日(月):午前中に石川伍長が連絡に来た。
8日(火):大東亜戦争開戦以来、満1ヶ年の記念日。日朝点呼4時、奉読式を行う。思えば感激のあの昨年の今日、よくも世界戦史にまれなる戦果を上げたものだ。感謝すべき皇軍の威か。
9日(水):本日、命令で分隊長・石川氏が軍曹に進級した。
10日(木):今日から二分隊の伊藤が手伝いに来た。
12日(土):今日、廣沢が連絡に来た。
13日(日):警戒警報中で外出はなし。一日中ほとんど炊事で、古澤君の煙草入れを作っていたので、あまり退屈はしなかったが、大分疲れてしまった。
15日(火):中隊は大村清瀬に道路作業。
17日(木):援助として第一小隊より池田兵長と坂巻君が来た。
18日(金):今日、石川軍曹のところより、立澤上等兵が連絡に来た。
22日(火):今日は東部軍の経理検査当日。
23日(水):ずいぶん久しぶりに大村清瀬弾薬庫に道路作業。
25日(金):今日は大正天皇祭で休養で、待機分隊以外は外出ができた。
26日(土):夕食後、また慰問袋をいただく。小石川の第二府立高女の慰問品であった。
28日(月):大村随道と清瀬随道とが防空構になった。立派なものになったのに驚く。作業は相変わらず清瀬の弾薬庫の道路作業だ。
30日(水):今日午後、石川軍曹以下6名、巽崎の出張より帰ってきた。そしてみな元気であった。
31日(木):9月に入り、八*部隊長が帰られて、武蔵野中尉、新たに隊長となる。そして作業は日を追って猛烈になり、かなり苦しい長い月日であった。留守の方は、有難いことに何の変わりもないとのこと。長らく戦地にいた弟・又雄も無事に帰還したとのこと。満州の弟もこれまた元気。東ちゃんも元気で、変わりなし。親友・戸塚君戦病死は惜しみても、余りあるものだ。銃後も、益々堅き加えつつ、この17年も無事に暮れて行く。

<昭和18年>
昭和18年1月
1日(金): 6時半、宮城遥拝式を行う。お神酒を祝い、分隊全員にて、扇浦と大村の神社に初詣した。
3日(日):今日は我が分隊の外出日。全員揃って、扇浦の川島氏宅において、分隊の新年会のようなものをやった。大分愉快になれた。少し飲み過ぎてしまい、帰ってすぐに寝た。
4日(月):今日は勅諭奉読式を日朝点呼同時に、営庭において行う。
6日(水):今年の仕事始め。昨年の引き続きの作業で、清瀬の弾薬庫の道路作業。
7日(木):お天気晴朗。午前8時、兵器の検査が営庭で行われた。明日は陸軍記念日で早朝より演習がある予定。
8日(金):大東亜戦下、第2回目の陸軍始め。今年は観兵式をやめにして、諸兵連合演習を行う。午前4時、起床。5時より行動を起こし、愛染峠に至り、それにて敵を迎え、後退しつ、北袋沢に至る。時に8時、小雨降りしきるうちに、壮烈なる白兵戦となり、連合演習も終わる。久保寺隊長及び、司令閣下の講評あり。10時、帰隊。武器被服の手入れ後、休養す。今朝、芝園丸入港して、便り来る。
9日(土):しかしながら西風強く、波浪高く、連絡船・巽丸に作業人員が乗り切れず、今朝は2回に運んだ。夕食後、第一、ニ分隊は、扇浦の学校に活動を見に行った。
11日(月):今日は蔵開きだ。
16日(土):今日は弾薬庫の山の高い樹を伐った。朝、大村の参考館で隊長殿より、ずいぶんいろいろと長い間、話しがあった。
17日(日):珍しく外出して、酒保でお酒を少し飲む。
18日(月):作業もまた清瀬弾薬庫の裏山で、防火道路作業。帰りは久しぶりに自動車で帰る。
20日(水):今日から小曲と扇浦間の道路修復作業。地方人も20人ほど援助に来た。それから海軍の自動車も2台来て、砂利運搬してくれた。陸・海・民と三体の作業だ。
22日(金):今日は東京府の自動車も援助に来た。大分出来上がってきた。期日も明日1日の予定だ。夕食後、俸給をいただく。
23日(土):今日中で出来上がる予定のはずであったが、とうとう出来上がらず、定時間4時で仕舞って帰る。
24日(日):そのあと分隊全員にて、写真を撮る。一日中何することもなく終わる。
27日(水):良く晴れて気持ちの良いお天気。いよいよ今日から清瀬・宮の浜間の道路新設作業をやる。

昭和18年2月
1日(月):一日中、松の大木の根堀をやる。
2日(火):隊長が作ったとかの新軍歌を、今日は往復歌ったためにのどが痛む。
4日(木):節分、夕食の時、珍しく小豆のご馳走があった。
7日(日):外出ができない日曜なので、一日中舎内で煙草入れを作った。
11日(木):紀元の佳節。9時、遥拝式あり。
13日(土):朝のうち、事務室で兵長以上に、隊長殿の学課があった。来週の週番下士勤務、定時中申し受けて服務した。今日も一日無事に終わる。
16日(火):午前、月例身体検査があった。明朝早く、隊長殿母島に出張になるので、何かとその準備に忙しかった。
17日(水):曇天にて一日終わる。隊長殿は、早朝母島に行くべく隊を出た。作業人員は定時(6時半)出発した。
18日(木):午前10時頃、スコール気味の豪雨あり。
19日(金):本日、母島より営口丸が帰って来た。
20日(土):長かった週番勤務も無事に明け、次週番に異状なく申し送ってほっとした。明日の日曜日は、地方に感冒が流行しているので、取りやめになった。
21日(日):午後は扇浦に軍歌演習に行く。昨日、経理の高杉軍曹が、初の帰還者として帰る。
25日(木):往復ともに、連絡船・巽だった。
27日(土):今日は道路作業をよして、隊長以下全員で、つつじ山に行軍した。
28日(日):今月もいよいよ終わりになった。今月最後の日曜日。感冒流行で、相変わらず外出はなし。魚釣りが許可になったので、四小隊の兵隊と小港に魚釣りに行った。

昭和18年3月
1日(月):珍しく蒲田の飯島より手紙が来た。
3日(水):今日は上巳の節句。
4日(木):待ちに待った慰問団の演芸を、今日扇浦の学校に見物に行く。大変面白く愉快であった。
8日(月):今日は大詔奉戴日だ。6時20分集合して、奉戴式を行う。終わってすぐに作業に出発。
9日(火):朝、起床同時に事務室に呼ばれて、学課の試験があった。あまりに突然なので、ほんとに驚いた。(兵長6名)煙草を止めるやめないとのことで、隊長より大分怒られて、試験は取りやめになった。水不足で、入浴なしだった。
10日(水):第何十回目かの陸軍記念日。昨夕、連絡船・巽が小港付近で遭難して、兵隊が1名死亡したとのこと。その他4名、付近の小岩に難を逃れているのが、昨夜より嵐のために助けることが出来ず、父島中大騒ぎだ。ほんとに気の毒だ。早く助けてやりたいものだ。
11日(木):巽丸で遭難した兵隊さんは、気の毒にも4名死亡したとのことだ。衷心よりお悔やみをしよう。(弔意)宮の浜に作業に行く予定だったが、乗り物の都合で取りやめになり、検閲の予行演習を扇浦の海岸で午前中やった。
14日(日):珍しく大きなイカが取れたのに驚いた。
15日(月):午前中、工兵の大島中佐殿が視察に来られた。
16日(火): 24時、週番士官渡辺少尉殿が巡察に来られた。
19日(金):午後、司令部の自動車で道路に砂利を敷く。
21日(日):暁の夢を破って突然に非常呼集のラッパが鳴った。入隊以来初めてのこととて慌てたが、どうやら好成績に終わる。軍歌演習があって、非常呼集も終わる。朝食後、月例身体検査がありあとは日曜の休みになる
22日(月):よもや今朝はあるまいと思っていた非常呼集の演習が、また今朝起床時間と一緒に行われた
23日(火):自分と遠藤武雄君とは側溝の直しで、一日中コンクリート屋をした。昨夜より警戒警報に入ったが、状況は大分悪いとのことだ。
24日(水):午後1時頃、連絡船・芝園丸が入港した。思いがけなくも、若干の兵隊が乗って来た。工兵隊にも15名補充兵が来た。郵便物は明日とのことだ。
27日(土):起床前午前5時、突然となる瓦斯警報に、寝ぼけ目で営庭に飛び出す。約30分に渡り瓦斯演習があった。今日は検閲準備の営内外の掃除を一日やった。検査前とて、ずいぶんに忙しい。早く終わってくれればよいが。
28日(日):午前、軍装検査。午後は扇浦の海岸において、検閲当日行われる作業の経始をした。夕食後、水がないので、裏の川に洗濯に行く。
29日(月):午後は内務検査があった。
30日(火):いよいよ今年度の検閲も明日に控えて、今日は朝から軍装検査があり、そのあと銃の検査が営庭であった。午後は扇浦の海岸で、明日の予行演習があり、隊長伝令ですっかり汗をかいた。
31日(水):本年の検閲は種々準備して、今日朝9時、軍装検査によって始まる。内務巡視と銃の手入れ方の学課で、午前中終わる。午後は扇浦海岸において、上陸する敵に対する防御戦闘の演習。自分は隊長伝令で、ずいぶん疲れた。

昭和18年4月
1日(木):司令官閣下よりの検閲慰労休暇。お昼より外出はあったが、疲れているので舎内にてゆっくり休む。久しぶりに慰問袋をいただく。
2日(金):珍しく徴用軍夫がたくさん手伝いに来た。今日は珍しくも、割合にたくさんの下給品があった。
3日(土):神武天皇祭でお休み。
5日(月):水が不足で、入浴なし
8日(木):今日は花祭りだ。内地のお寺では、さぞや賑やかなことだろう。朝雨のために、今日の奉戴日の式は取りやめになった。
10日(土):約30日ぶりでの衛兵勤務なり。本日、芝園丸入港の予定とて、兵隊は大騒ぎだ。定時、交代して勤務につく。11時、待望の芝園丸が入港。そして交代の兵隊もやって来た。隊へ来たのが15時過ぎだが、あまりにも交代員が少ないのには、皆もほんとにがっかりした。73名だけが元気にやってきた。突然、補充兵係を命ぜられ、勤務を交代して、6時連珠谷の兵舎に来た。教官・本井見習士官、助教は自分と長谷川・柴内両上等兵だとのこと。
11日(日):日朝点呼の際に分隊割。自分は第一分隊長だ。一日中雨のために外出は何もできなかったが、色々な準備のためにかなり忙しく、夜も11時までかかった。夕方、中隊へ入室兵を送っていく。今度の兵隊には、八千代町より1人来た。同町内は懐かしい。ほかに今1人、俺を知っているのに驚いた。
12日(月):大村の要塞神社に参拝した。行きは行軍にて大村に行き、帰りは船に乗って帰って来た。
13日(火):帰って補充兵学歴表作成で、大変に遅くなり、11時半就寝す。中隊では満期兵の命令が出て、大変な騒ぎだ。
14日(水):晴れ。補充兵入隊。夕食後、兵舎内において、娯楽会を開く。かなり盛大で、人の多いのには驚く。
16日(金):今朝6時より、除隊式があって、式に参列した。8時、栄丸にて作業に行く。
17日(土):晴れ。帰還兵が、今朝8時万歳の声に送られて、嬉しそうな顔をして元気に乗船した。時に9時、1年有半住み慣れたこの父島をあとに、なつかしの故国に帰る。気持ちはいかがばかりか。12時出発した。学校に映画見物に行く。6名。
18日(日):午後は隊長の命により、山へ補充兵全員ワラビ取りに行く。
21日(水):夕食後、酒保品として煙草10個渡さる。
22日(木):曇り。今日から海軍防備隊に随道の扉を作る作業に行く。自分は運搬班長にて行く。。
23日(金):今日、出川君が山名中尉に殴られた。状況上、ほんとに残念で仕方が無い。今日は警戒警報が出た。
24日(土):雨。靖国神社の臨時大祭を3度任地父島において迎えた。夕食後、一部進級者の発表があった。
25日(日):夕食後、初の演芸会が第三小隊において開かれた。
27日(火):夕食後、学校で焼夷弾の実験があったが、行かなかった。
28日(水):夕食後、天長節の下給品があり、俸給をいただく。
29日(木):天長節の佳節を記念する新演習を、洲崎飛行場において行われた。9時、司令官閣下来場の下に開始された。初めての演習にしては、割合に良くできた方と思っている。初年兵第三小隊第一分隊長として参加した。。(落下傘兵に対する演習)
30日(金):晴れ。靖国神社の例大祭当日で、遥拝式後、休養で外出。初年兵の携帯**、軍隊手帳、**包を返納した。ほかに被服適合調査もした。

以下空白。
                           
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